江上賢(以後、MASASHI)は、1968年6月19日に徳島県椿泊に誕生した。幼い頃より描くのが好きで、家の壁に処女作が遺っている。すくすくと育ち、地元の小学校へ。3年間通ったが、病(進行性筋ジストロフィー症)の進行のため、歩行が困難となり、1978年に(元)国立徳島療養所へ入院。四国各地、近畿地方から集まった仲間とともに療養(主に歩行、器具を使った訓練、作業療法など)するも、隔絶された空間や規則、看護職員との関わりに苦労したことで、数々のエピソードが生まれた。
入所した日のこと。共に新入りのAがへびのおもちゃを手に「おもっしょいけん、観よって!」と言うと、MASASHIの顔へと近づけた。すると、瞬く間に立ち上がり、備え付けの棚を支えに奇声を発した。声変わり前の高い声だったが、怒ってはいなかった。困惑と喜びの混ざった表情を浮かべ、逆に、年下のAのことを気遣っている様子だった。
また、ドキュメンタリー番組でカメの産卵を見た彼は、いたく感激し、再現すると言って、人前でどんなパントマイマーにも敵わぬパフォーマンスをした。詳しくは書けぬが。。。
他にも、印象に残った出来事がある。療養所では一日二回、病の進行を遅らせるための訓練があったのだが、いつの日からか来なくなり、様子を見に行くと、座禅を組んでベッドに座っていた。筋肉にとって、曲げた状態で長時間じっとしているのはとても危険なことだ。なんとか自力歩行ができている時期だっただけに、驚いた。病に負けるくらいなら自分から歩けなくなったほうがマシだという気持ちだったのかもしれない。いつ思い出しても切ない記憶だ。
日課をこなすことや訓練室、教室へ入ることが苦手で、毎朝、手に汗握る大河ドラマのごとく、一悶着だった。かといって、社会性が乏しいわけではない。クラスで孤立もせず、興味深い内容のときには質問の嵐、行事には積極的に参加した。
MASASHIは、常にお気に入りの物を持って車椅子に乗っていた。防水ラジオ、好きな歌手(加山雄三、桂銀淑)のカセット、外国語のテキストetc.夜は消灯を過ぎても眠らず、聴こえないくらいにヴォリュームを下げ、朝まで短波放送をかけていた。
キレると物を投げること、機嫌の良いときには、体験談や仕入れた雑学、シュールなジョークをとばし、ぽっちゃりとした顔からは想像しづらい繊細さと、激しさ、誰もが真似できないユニークな表現力に満たされていた。そのことが面白くないという職員もいて、晩年には暴力や嫌がらせを受け、天真爛漫だった作品にも影響が。。。線を執拗に描き、真っ黒になったり、形を観ても何かを連想することさえ難しくなった。
あるとき、香川県を訪ねたいと計画していたことがある。体調も落ち着いていて、気候の良いときをと、親しい人たちの協力で進めていたが、病棟師長の激しい反対に断念せざるを得なかった。男泣きに泣いたMASASHIの様子に、何とも言えぬ想いだった。しばらくして、挽回とまではいかないが、TAKESHIの妻の実家(徳島県)で、一日を過ごすことが叶った。アルバムを見て、会話を楽しみ、さわち料理の焼き魚を堪能し、名残惜しいと消灯間際まで、ささやかな時間を大切に過ごした。
1992年8月15日 MASASHIは24年の生涯を終えた。人なつっこさと豊かな感情表現、芸術的な才能に溢れた人物だったが、療養所は、にんげんの元来持つ性格を、否定する方向へ流れていたのか?
どんなディフェンスも通用せず、特に後半で打たれ続けても彼は根を上げなかった。最終ラウンドの勝利を信じて闘い続けたのだろう。きっと、心地よい疲れと充実感を胸いっぱいに、生まれ育った場所で死を迎え、旅立ったはずだ。そう信じて没後15周年を祝おう!
2006年 香川県 「遺したい言葉」展にて作品展示。